学問の神様 菅原道真 大宰府天満宮 合格祈願

センター試験 学問の神様 菅原道真公を祀る大宰府天満宮で合格祈願

センター試験 学問の神様 菅原道真公を祀る大宰府天満宮で合格祈願

センター試験、大学入試のシーズンですね。受験生の皆様には日ごろの成果をいかんなく発揮できるよう心よりお祈り申し上げます。

 

さて、学問といえば学問の神様、菅原道真公を祀る太宰府天満宮が有名ですよね。

天満宮という名前の由来

実はこの天満宮という名前。菅原道真公の「怒りが天に満ちる」という言葉から来ています。

 

そして、今なお「学問の神様」として尊敬されるほどの菅原道真公は、なぜ都である京都から遠く離れた九州の大宰府で生涯を終えたのでしょうか?

 

この菅原道真公は平安時代、もともと朝廷の要職を勤める貴族で学閥となるほどの家柄でに生まれましたが、その中でも5歳で和歌(といっても、当時は正式には漢文です)を読むほどの「神童」とも呼ばれ、若干18歳で学者としての最高位にまで上り詰めます。学問の神様と呼ばれていますが、実は文武両道で武術にも秀でており、後に将軍職なども兼任するほどです。

 

その後も家柄に応じた朝廷の役職を歴任した後、いったん讃岐守(香川県)となり、現地に赴き、現地の復興を成し遂げつつ、当時の宇多天皇と藤原基経との政変を収めたりといった実績をあげます。

 

菅原道真公のこれらの業績により、時の宇多天皇からの厚い信任を得て、京に呼び戻され、以降、ますます要職を担い、右大臣となって天才振りを発揮し、国の発展に貢献するようになります。

藤原家との政権争いで大宰府へ左遷

しかし、時は藤原家が政略結婚を進め摂政関白を独占する摂関政治の時代でした。藤原氏にとって、菅原道真公の重用が面白いわけがありません。

 

当時、左大臣の藤原時平の讒言により、醍醐天皇から皇位を奪おうとしたとの罪を着せられ、菅原道真公は大宰権帥という、今で言えば「大宰府支店長代理」のような閑職に左遷され、4人の子供も流刑となりました。

 

罪人ですので、家族との別れを惜しむ暇すらないままに、文字通り、大宰府へ飛ばされたのです。

 

その2年後に菅原道真公は、大宰府の地で非業の生涯を終えます。(903年)

半沢直樹ばりの復讐劇

 

 

実は、菅原道真公については、ここで話が終わりません。

 

道真公の死後、飢饉や疫病、道真公の左遷に加担した藤原氏の一族が次々と早死にするなどの事件が次々と起こり、「菅原道真公のたたり」として恐れられました。また、道真公の無罪も朝廷内で立証されることとなりました。

 

そして、その学問や業績、そして朝廷への至誠を称えられ、天皇家以外の「人」であった菅原道真公が天神さま=「神」として、現在の太宰府天満宮に祀られることとなったのです。

 

現在各地にある天満宮や天神という名の神社は、菅原道真公が大宰府へ下る途中に立ち寄られた場所、というのが起源になっています。

 

また、949年に飢饉や疫病が流行したことが「菅原道真公のたたり」としてとらえられ、その「天に満ちた怒り」を鎮めるために、時の村上天皇が大阪天満宮を造営し、その後、鉾流神事や船渡御などが行われるようになりました。これが現在、日本三大祭の大阪天神祭りの起源と言われています。

 

死後、50年もたってから「たたり」として恐れられていることからも、当時の菅原道真公の知名度や業績、そして政変がいかに大事件であったかを推し量ることができますね。

 

ちょうど大河ドラマ「花燃ゆ」でも、吉田松陰が孟子の「至誠天に通ず、至誠にあらざれば此れからざるなり」を引用する場面がたびたび出てきますが、家柄にとらわれず、自らを律し、学問を修め、至誠を尽くした菅原道真公は、まさにこの言葉を体言された方といえるでしょう。

 

https://www.youtube.com/watch?v=u1HbXskS6q4

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